日本人はなぜうまい飯を食べなければいけないのか?

「日本人はうまい米を食べなければならない」これは私の独断と偏見に満ちた持論です。今回はその確固たる理由をご説明いたしましょう。

身体が基本

「人は何のために生きるのか?」私は「人生は生きることそれ自体がその目的である」と思っています。生きていく過程でさまざまな困難に対処したり、感動の場面に遭遇したりして精神が磨かれていくのだと思います。具体的な目標は人それぞれ異なりますが、「幸せに生きたい」、「目標を達成して満足感を得たい」という思いは誰しもがもつ共通した感覚だと思います。したがって、人生を成就するには、前に進むための根源的なネルギーである充実した「精神」が必要であり、さらに、その精神が宿って実際に行動を起こす「肉体」が必要となります。

食事は生きる源

では次に、器である肉体が健全に機能していくためには何が必要でしょうか?2つあります。それらは、エネルギーを摂取すること(食事)、そして肉体を動かすこと(運動)です。車を動かすにはガソリンが必要ですし、走らせないと錆付いて動かなくなってしまいます。日頃の手入れも必要です。「運動」の重要性については別の分野の方にお任せしたいと思います。

稲穂の国

ではさらに「食事」について考えてみましょう。「食事」には洋の東西を問わず、その国々の環境に根ざした作物があり(動物もいます)、それらを加工する料理法、食習慣というものがあります。

日本は、その温暖湿潤な気候が米という作物に適し、その昔「瑞穂の国」と呼ばれました。米は、日本においては栽培方法も比較的容易で、麦のように粉にする必要もなく、栄養価にも優れ、何より「おいしい」という食物にとって最も重要な要素をもっています。また、加工用途も幅広く、御飯はもとより、餅、団子、味噌、酒など多岐に渡ります。稲によって人々の「食」が満たされ、生活が安定し、文明が発達し、そこに文化が生まれます。一方で、米への依存観念は自然崇拝にもつながり、神道という宗教を生み出すことになります。

米や酒が、あらゆる生活儀式、農業儀式、宗教儀式などで登場することを見てもいかに米が日本人の生活に根ざしているかがよくわかります。食事をすることを「めしを食う」と言い、パンを食べても「朝ごはん」と言います。「酒を飲む」の「酒」は本来「清酒」の意味です。(例外として、鹿児島では一般的に「酒」といえば、「焼酎」をさします。)日本人にとって、米は主食であり、嗜好品であり、労働であり、娯楽であり、哲学なのです。

米は日本人そのもの

このようなことから鑑みますと、祖先から受け継いだDNAをもつ私たち日本人にとって、栄養価に優れなおかつ体に適した米を食べることは、ただ単に肉体を動かすための最適なエネルギー源というだけでなく、目に見えない日本人としてのアイデンティティを吸収することになると思うのです。「個食」だったり「孤食」だったりではだめなのです。やはり、「同じ釜のめしを食う」ことで底力も沸き、コミュニケーションもしっかりとれると思うのです。外国に遠征し、活躍する日本人の多くはやはり御飯を食べるとよく聞きます。

ここまでの理由が日本人が米を食べなければならない理由の説明です。

食べることの意味

次に、なぜ「うまい米」でなくてはならないかという問題です。「うまかろうとまずかろうと何を食べようと人の勝手ではないか!」と一喝されそうなところですが、絶対にうまくなくてはならないんです!これが。

まず、第一義的には、「食べる」という行為は人が生きるためのエネルギーを摂取するために備わった動物としての本能です。食物をエネルギーに変換するために動物には、消化器官として、口、食道、胃、腸が体に組み込まれています。そして、もう一つ。入り口のところに舌がついています。この舌は味覚を感じる感覚器官であり、大事なセンサーです。

これによって、甘味、辛味、苦味、酸味、旨味、塩味などの味を感じたり、鮮度を判断したり、体にとって有害なものを区別したりすることができます。また、食物の複雑な成分を分析し、大脳に電気信号を送り「うまい」「まずい」などという感覚を起こさせます。そのことは人の精神面にも影響を及ぼします。おいしいものを食べれば喜びを感じます。懐かしい思いに浸り、涙することもあります。逆に、腹が立ったり、その味がもとで喧嘩が起きたりすることもあります。

味わう喜び

人は食物を食べるためにその加工方法、調理法を考案してきました。目的はいろいろです。長期保存を可能にするため、消化吸収をよくするため、毒素を取り除くため、鮮度を保持するため、動物としての本能を満たすために努力してきました。しかし、理由はそれだけではありません。食物を確保し、空腹を満たすためだけなら調理法は一通りで十分です。もう1つの理由、それは「味覚」という感覚を満たすためです。「伝統料理」と呼ばれるものには古の人々の創意工夫が盛り込まれています。試行錯誤の中から経験的に培った料理法ですが、現代の調理学や栄養学に照らし合わせても、栄養成分を損なわず、吸収効率よく、しかもバランスよく摂り入れられるように工夫されているのには驚かされます。

結論

「米を食べることは日本人の身体に適しており、その栽培は日本の風土にも合っている。そしてそれをおいしく食べることによって精神的満足を得て、毎日を充実した気持ちで迎えることができ、人生を生き抜くことができる。ゆえに『日本人はうまい米を食べなければならない」ということですが、いかがでしょうか?!ちょっと無理がありますか?それでもいいですから、皆さん、一緒においしい御飯を食べましょう。

みんなでうまい飯を食う!

おいしい御飯

私の言う「おいしい米」このというのはけして「高額な米」と言っているのではありません。贅沢をしようと言っているのでもありません。みんなで魚沼産のコシヒカリを食べようという意味ではないのです。「おいしく食べよう」と言っているのです。

話は少しややこしくなりますが、「おいしい米」は厳密には存在しません。生米は腹をこわします。あるのは「おいしい御飯」です。どんなに素晴らしい米でも必ずしもおいしい御飯になるとは限りません。日本人の米へのこだわりが素材(穀物)としての「米」と料理としての「御飯」と、言葉を区別しています。英語ではどちらもライス(RICE)です。区別しません。「炊飯」は立派な調理であり、その手間ひまに人の心が加わるのです。「米」が「おいしい御飯」にたどり着くまでには長い工程を経なければならないのです。

おいしいお米を作る努力

まず良質の素材作りです。料理は素材がその味の90%を占めると言われるくらい重要です。農家の方に手入れの行き届いた田で米が育ててもらい、収穫したら農協などできちんと管理して、温度管理された倉庫で出荷を待ちます。集荷業者である卸業者から精米業者に渡ります。ここで精米業者は不純物や不良の米などを取り除いたりして精米(1次加工)します。流通業者により正しく鮮度管理されて、業務店、飲食店、量販店、給食センター、一般家庭などに届きます。そして炊飯です(2次加工)です。そこで、正しく計量し、きちんと研いで、水に漬けて、炊いて、蒸らしてようやくおいしい御飯の出来上がりです。

日本国中の全ての米がおいしく提供されれば皆幸せな生活を送ることができることでしょう。米を提供する側はおいしい米を作る努力しなければなりません。「まずい米」や「まずい御飯」は時に罪悪です。食の楽しみを奪います。人の気持ちを暗くします。時には人の心を歪めたりもします。粗悪な商品は粗雑に扱われることになり、売る人や買った人に喜びや感謝の気持ちは芽生えません。心の載っていない商品はお客さんの心をとらえません。まずい御飯は食べ残しが出たり、売れ残りが出たりします。結局ロスになります。食物の浪費にもつながります。

少しの手間をかけて

消費者の努力も必要です。米は日本の地に与えられた天の恵みです。絶やすことがあってはなりません。そのためには消費することです。消費は生産を促します。良い商品を求めることは生産技術や加工技術を高めることにもつながります。「うまい米」を求め、少しの手間をかけて「おいしく食べる」努力をすることです。

日本人の繊細な味覚

私たち日本人は白御飯をそれだけで味わうことができる繊細な味覚を持っています。今や食品添加物の摂り過ぎでその優秀な能力にも陰りが見えてきています。御飯に限らず、淡い味わいをおいしいと感じられない人が増えてきています。食文化が後退しています。もう一度、本来の舌を取り戻す努力をしましょう。それは私たちが健康で充実した生活を送る第一歩でもあるのです。

時には、一膳の御飯に、私たちの祖先が築いてきた悠久の歴史に思いを馳せてはいかがでしょうか。縄文人も同じ米を食べて生きていたのです。きっと家族や仲間と食べて「おいしい。しあわせ。」と感じたことでしょう。

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